やまそうの音ゲー紀行

音ゲーに関する幅広い話題について書きます(上達論多め)

【ぼっち・ざ・ろっく!】「結束バンド」の楽曲から垣間見る、結束バンド的幸福論

どうも、やまそうです。

 

ぼっち・ざ・ろっく!最終話「君に朝が降る」、最高でしたね。自分は普段アニメをほとんど観ないのですが、ぼざろに関しては数年に1回位の勢いでドハマりしています。もしアニメが面白いと思ったなら、原作も買ってみましょう。4巻中盤辺りの話*1を映像で観たすぎる……(注釈ネタバレにつき注意)

タペストリーのイラストが良すぎて5巻特別版の方を購入したらしい

さて、最近では「ぼざろロス」から逃れるようにTwitterのファンアート収集とSpotifyでアルバム「結束バンド」の曲を鬼リピしているのですが、ここである事に気付きました。

 

あれ、「結束バンド」の曲、神曲しかなくない?

 

自分は普段音楽ゲームに関する記事を書く事が多く、これまで「音ゲー曲」以外の楽曲をきちんと聴く機会が滅多になかったのですが、それでもぶっ刺さる曲しかなくて驚きました。

 

そこから歌詞についてもきちんと考えてみようと思って色々見ていたのですが、その中で見えてきた事があったので今回はそれについて書きます。とは言っても、年末になって焦って書いてる時点でお察しですが、オタクが良い作品について語りたいだけの駄文になる事をお許しください。

お喋りなオタクで、すみません

また、ここから先はアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」及び、アルバム「結束バンド」のネタバレが含まれます。まだ観てない、聴いてない方は是非観て、聴いてみてください。本当に"良い"ので……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

① 恋や愛について

結束バンド楽曲には、しばしば「恋」や「愛」についての歌詞が登場します。最も直接的にそれが歌われているのは「ラブソングが歌えない」ですが、「青春コンプレックス」「カラカラ」においてもこれらの単語が出てきます。

無情な世界を恨んだ目は どうしようもなく愛を欲してた 

「青春コンプレックス」より

 

重大な問題抱えて眠る 愛された方が確かに無双的だけれど

「カラカラ」より

 

でもこれってよく考えたら不思議だと思いませんか?そもそも、「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品に男性のキャラは殆ど登場しません。*2また、結束バンドのメンバーである彼女達が恋愛を求めているような描写もほとんどありません。*3では彼女ら*4にとって、歌詞の中で歌われている恋や愛というのはどういう存在なのでしょうか?

 

1つの考え方として、恋や愛、というのは後述する「孤独」と対立する概念、大雑把に言うのであれば「他者との繋がり」を象徴する単語として用いられているのではないかと解釈できます。後藤ひとりは話の最初で「(中学)三年間友達一人もできなかった」と述べており、作中でもクラスメイトとの交流がない訳ではないにしろ基本的に孤立した存在として描かれているため、彼女は人間関係に飢えていると言って良いでしょう。

 

また、「青春コンプレックス」という曲は歌詞を概観すると彼女について語った歌なのが明確であるため、この「愛」は人間関係とほぼ同義であると考えられます。また、「カラカラ」も同様の解釈で良いんじゃないかなぁと思います。*5

中学時代のひとりさんもかわいいね

では、「ラブソングが歌えない」における愛についてはどうでしょう?これに関してですが、前述した解釈では成り立ちません。何故なら、ラブソングというものが男女の恋愛を題材にした楽曲であり、単なる「他者との繋がり」以上の関係性を前提としているからです。

 

そこで、「『ラブソングが歌えない』における愛は、俗物的な幸福の象徴である」という解釈を提案したいと思います。この曲では「愛」に踊らされる人々に対してシニカルな目線が向けられており、最終的に「見えなくていい」と拒絶します。つまり彼女らにとってここでの「愛」は理解不能な存在であり、不要なものなのです。

 

では、彼女らは愛の代わりとして何に幸福を見出すのでしょうか?それは勿論バンド活動であり、「私だけの秘密基地」や「形のない情熱」などが対応していると考えられます。ちなみに、「趣味に生きる事」に関しては「結束バンド」の重要なテーマの1つであり、この後でも言及するので頭の片隅に入れておいて貰えると。

 

 

 

② 孤独と社会からの疎外

前項でも指摘しましたが、ひとりはこれまで孤独な人生を送ってきたため、必然的に「孤独」もテーマの1つとなります。ですが、ここでは単に一人ぼっちであるという事より広い意味で孤独を捉えてみましょう。

息も出来ない情報の圧力

めまいの螺旋だわたしはどこにいる

こんなにこんなに

息の音がするのに

変だね世界の音がしない

「ギターと孤独と蒼い惑星」より

 

不協和音に居場所を探したり

悲しい歌に救われていたんだけど

あのバンドの歌が誰かにはギプスで

わたし(だけが)間違いみたい

「あのバンド」より

 

まず「ギターと孤独と蒼い惑星」においてはひとり達が生きる現代の都会において大量の情報に押しつぶされそうになる事が歌われています。その中で「わたしはどこにいる」となる訳ですが、これは情報の圧力によって自己の在り方を見失う事、言うなればアイデンティティの喪失」を指していると考えられます。

 

これは単に独りぼっちである、という意味の孤独とは異なります。その後の歌詞を見ても分かるように、都会なので当然「こんなに こんなに 息の音がするのに」と人自体はたくさんいる訳です。しかし、そこから「変だね 世界の音がしない」と続き、大量の人で構成される社会から自身の存在が疎外されている事を指摘します。この「人は沢山いるのに、孤独である」という都会の描写は、「ひとりぼっち東京」においても見られますね。

アイデンティティの危機

では、「あのバンド」*6においてはどうでしょうか。引用したのは2番の歌詞ですが、1番の歌詞ではあのバンドの歌は「甲高く響く笑い声」「つんざく踏切の音」と表現されており、否定的に描かれている事が分かります。

 

しかし、2番の歌詞では「あのバンドの歌が誰かにはギプスで」とあるように、ひとりにとっては苦手な歌で救われる人間の存在について語られます。そして、孤独な学生生活を過ごしたが故に「不協和音に居場所を探したり 悲しい歌に救われていた」彼女は「わたし(だけが)間違いばかりみたい」と、ある意味"世間一般的"ともいえるあのバンドの歌で救われる人達との感性のズレを自覚する訳です。これも感性のズレという視点ではあるものの、社会からの疎外と言えるのではないでしょうか。

後藤ひとりさんにHOT LIMITとか聴かせたら絶命しそう

 

 

③ 俗物性とアイデンティティ

ここまで見てきた歌詞にも既に登場していますが、結束バンドの曲の歌詞は「俗物性」との対立構造で描かれる事が多いように思います。「ラブソングが歌えない」では俗物的幸福の象徴としての愛との対立、「あのバンド」では「あのバンド」の曲を聴いて救われる俗物的感性との対立が描かれています。

 

もう1つ例を挙げるならば、「忘れてやらない」でしょう。1サビ前の「作者の気持ちを答えなさい」という歌詞は「自身の感性とは関係なく、期待される解答が既に決まっているもの」であり、俗物性を象徴する存在としてよく機能しているように思われます。

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そして、俗物性が行き過ぎると最終的には「ギターと孤独と蒼い惑星」のようにアイデンティティの喪失へと至ります。ちなみに「フラッシュバッカー」においてもアイデンティティへの問いかけがされていますね。(透明なこの体は~の所)

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④ 現実の生き辛さの中で、趣味に生きる事

結束バンドの作詞は大枠の設定上ひとりが担当する事になっています。*7それもあってか、歌詞にネガティブな内容が含まれる事はここまで読んできた方も納得する事でしょう。では、彼女は歌詞にただ社会に対する不満をぶつけて終わりなのでしょうか?

 

この質問に対する答えは断じて否です。そして、個人的にはここから語る内容こそが「結束バンド」を真に素晴らしいバンドにしている要因であると信じています。

 

その前に①~③について振り返ってみましょう。彼女達*8は恋や愛といった俗物的幸福を拒絶します。そして、孤独や社会からの疎外、更にはアイデンティティ喪失の危機に直面します。では、彼女達はどのようにしてこれらの問題を解決し、幸福へと至るのでしょうか?その答えこそが、まさに「バンド活動」なのです。では、ここから具体的に歌詞を見ていきましょう。

人生はつらいよ

さみしがり東京

みんなひとりきりなんだ

だから誰かと

つながり合いたいの

なんだっていいよ

好きなものやことならハッピー

絶対共通言語があるよ

「ひとりぼっち東京」より

これはとても分かりやすいですね。「好きなものやこと」即ち趣味で他者と繋がりを得る事が肯定的に歌われています。

 

手を叩くわたしだけの音

足鳴らす足跡残すまで

目を開ける孤独の称号

受け止める孤高の衝動

今胸の音確かめる心音

ほかに何も聴きたくない

わたしが放つ音以外

「あのバンド」より

前述した通り、「あのバンド」では「あのバンド」の歌に対する嫌悪感と「あのバンド」の歌を嫌悪するひとりの感性が疎外されている事が歌われています。そこで彼女は、その事実を肯定した上で「目を開ける孤独の称号 受け止める孤高の衝動」と社会から疎外された「孤独」から「孤高」へと至る道を目指します。

 

とは言ったものの、これはそう簡単ではありません。何故なら、「彼女は孤高である」と他人から認められるには圧倒的な実力が必要だからです。実力が伴ってない人が孤高を主張しても、「ただ周りから浮いている残念な人」になってしまいますからね。これこそまさにギターヒーロー」として圧倒的な実力を持つひとりだからこそ出来る強者ムーブであると言えます。

ギター持ってる時だけ別人になっていらっしゃる?

わたしわたしわたしはここにいる

殴り書きみたいな音

出せない状態で叫んだよ

なんかになりたいなりたい

何者かでいい

馬鹿なわたしは歌うだけ

ぶちまけちゃおうか星に

「ギターと孤独と蒼い惑星」より

「わたしはここにいる」というのは当然ながら前半部の「わたしはどこにいる」に対するアンサーになっている訳ですが、「なんかになりたいなりたい 何者かでいい」と現代の都会で失ったアイデンティティの回復を願った上で彼女は歌うのです。*9

 

まとめると、「ひとりぼっち東京」では趣味で他者と繋がる事によって「孤独」を、「あのバンド」では孤独から孤高へと至る事で「社会からの疎外」を、「ギターと孤独と蒼い惑星」では歌う(≒バンド活動をする)事によって何者かになるという「アイデンティティの喪失」を解決しているという訳ですね。言い換えれば、これら全てで「バンド活動」が問題解決のトリガーとなっています。

 

ひとり自身「無責任に現状を肯定する歌詞はあまり好きじゃないんだけど…」と語っている*10ように、結束バンドの曲には「この世の中は辛い事が沢山あるけれど、それでも趣味に生きる事で前を向いて行こう」というメッセージが込められています。メタ的な視点になりますが、アニメ最終話で転がる岩、君に朝が降るをひとりにカバーさせたという事が何よりの証拠でしょう。そしてこれこそが孤独でありながらギターに全てを捧げた彼女なりの生き方であり、その思想こそが"本物"であると自分は思いました。

後藤ひとりさんがイケメンすぎて気が狂いそうです

 

 

おわりに

「結束バンド」の曲が好きすぎて年末なのにも関わらず怪文書を生成してしまいました。この記事を書くために何回も曲を聴いていたのですが、「やっぱり音楽って良いなぁ……」と思いながら書き進めてました。

 

最初の方でも少し触れましたが、自分は普段バリバリの音ゲーマーをやっていて様々な音楽ジャンルに触れる事が多い身です。そんな中「新しい音楽と触れるのは面白い!」という事を再発見できました。「結束バンド」、本当にありがとう……

 

最近ではSpotifyの3ヶ月無料に登録したので色んな音楽を聴くようにしており、今度はアジカンの曲やメディアミックス企画(Re:ステージ!や電音部など)の音楽にも手を出してみようかなと考えている所だったり……

 

では今回はこれで。

 

おまけ

おすすめのアルバムを貼っておきます。(インストだけどギターがめちゃくちゃカッコ良い!)

open.spotify.com

*1:「未確認ライオット」のライブハウス審査回→野外ライブ回

*2:アニメの範囲であれば、ひとりの父と新宿FOLT店長の吉田さんくらい

*3:もし彼女らが恋愛を求めるなら「ラブソングが歌えない」の歌詞は絶対に出てこないはず

*4:元々は「作詞担当のひとりにとって」と書きたかったのですが、全ての歌詞を彼女が書いたと考えるのはかなり無理筋な事に気付いたので敢えてこういう書き方をしています

*5:「カラカラ」はリョウのキャラソン的な立ち位置の楽曲であるため、ひとりの内面から歌詞を推測するのはかなり無理矢理ではあるのですが……そもそも「カラカラ」の歌詞の主題はここではない

*6:一部では「あのバンド」の歌詞をひとりではなくリョウが書いた可能性についても指摘されているのですが、取り敢えず今回はひとりが書いた事にして話を進めさせてください

*7:単行本1巻P.29

*8:とは言っても、ひとりの要素が強いのは間違いないです

*9:実際には結束バンドのボーカルは喜多ちゃんなのですが……

*10:単行本1巻P.73